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温泉保養地環境

伝統的な温泉保養地の運営

井上 昌知
NPO法人健康と温泉フォーラム 常任理事


1 概説

(1)温泉保養地の運営について

1) 温泉保養地という考え方

 私達が温泉地に行った場合、宿泊した旅館やホテル、買物をしたお土産屋など個々の店とは別に、この温泉地は栄えているとか寂れているなどの印象を持つ。つまり、温泉地は、それを構成する個々の企業、行政機関、公共施設などとは別に、それらを含めた全体として評価される一つの組織体として存在する。このような温泉地全体としての個性は、永い歴史の積み重ねの結果でもある。日本の伝統的な温泉保養地の基本型ができたのは、戦国時代の終わりから江戸時代にかけて商業や農業の発達と共に形成されていったといわれているが、その各時代にそれぞれの個性をもった伝統的な温泉保養地が形成されていった。例えば、江戸時代の温泉番付(諸国温泉効能鑑)で東の大関となっている草津では、当時のほかの町では見られない町の中央に広場がある個性的な町づくりが行われるとともに、温泉の利用についても、武士も町人も同じルールに従うという一般の町にはない運営が行われていた。このような歴史の積み重ねが今日の草津温泉を形成しているのであるが、最近増えた一軒宿の温泉地ではなく、いろんなホテルや旅館があり、飲食店があり土産物屋があり、遊技場があり、公共施設がありといった、日本の伝統的な温泉地を温泉保養地ということができる。

2)温泉保養地の複合性

 温泉保養地を形成する主要な企業には、旅館、ホテル、飲食店、みやげ物店、遊技場、スポーツ施設などがあり、その温泉保養地の構成要素として経営が行われている。また、その温泉保養地の地方自治体は、行政機関としての立場から、保健衛生、観光振興、商工業の振興、住民福祉などの行政的な行為を行なうことにより、温泉保養地の構成にさんかしている。さらに、個々の企業が旅館組合や商工会、観光協会などの組織をつくれば、その組織には、個々の企業とは異なった考え方が、団体として打ち出される。このような個々の企業の考え方と行政の考え方、団体の考え方という多くの考え方が複合的に存在しているのが温泉保養地である。したがって、温泉地全体として行動をとろうとする場合、考え方の方向性は必ずしも一致するわけではない。行政と企業の考え方が異なる場合もあれば、団体の考え方と行政の考え方が異なる場合もあろうし、個々の企業とその団体の考え方が異なる場合もある。このような、複合的な性格をもっているのが温泉保養地なのである。そこで温泉保養地にはそれを統一する運営主体の存在がどうしても必要となる。

 この関係を図で示せば次のとおりである。




(2)温泉保養地の運営主体

1)主体確立の必要性

 温泉保養地は、上記のような複合的な性格をもっているが一つのまとまった組織体である。したがって、その組織体を動かす主体が必要である。個々の企業が、その企業を経営する主体が必要であるのと同じ意味で温泉保養地全体を運営する主体が必要なのである。通常考えられる組織としては、地方自治体の中の担当部局、観光協会、旅館組合、商工会などのメンバーで構成される連合的な組織体であろう。このような官民一体となった温泉保養地運営主体の確立は、頭の中では理解されても実際には多くのネックがあり、総論賛成、各論反対というケースが多いのが一般である。温泉保養地運営に成功している事例をみると、これらの実際上の問題点を克服し温泉保養地づくりの牽引力となった複数のキーパーソンが存在している例が多い。このような人づくりをすることも温泉保養地運営主体の確立のためには不可欠である。いずれにしろ、この温泉保養地運営主体が確立されないようでは温泉保養地の運営は不可能である。明治時代、ベルツ博士は、その著「日本鉱泉論」において多くの提言を行っているがこれが日本の温泉保養地になかなか受け入れられず博士を嘆かせたといわれている。日本の温泉保養地の保守性もさることながら、温泉保養地運営主体の確立が不十分だったことを窺わせる。

2)地方自治体と温泉保養地運営主体との関係

 温泉保養地の中には草津町のように町民の8割が温泉関係で生活しているところもあれば、もともと農業の町の一部に温泉保養地がありそれが有名になった湯布院町のようなところもある。前者のように、町全体が温泉に関係し、行政の中に温泉関係の行政が数多く存在していたとしても、地方自治体としての草津町は温泉保養地運営主体とは別のものである。地方自治体の目的は住民の福祉の実現にあり、温泉保養地の繁栄が住民の福祉につながる範囲内で温泉保養地運営主体に参加し、行政機関としての立場から行動を起こすことができる。そのときには、条例を制定したり、規則をつくり、入湯税を徴収するなどの権力的な行為も行なわれる。しかし、このような行政からの行動だけでは温泉保養地経営はできない。ホテル・旅館の経営者、商店の経営者、病院の経営者、健康施設や遊戯施設の経営者、一般住民などなど行政には介入できない民間施設の経営と行政の行動とが相まって、温泉保養地の経営が可能なのである。民間の経営者は営業の自由が権利として認められておりそれに基づき自由な競争が行われる。しかし、温泉保養地運営主体が決めた方針が打ち出されればその方針に従うべきでありその範囲で営業の自由は制限される。街並みを美化するための店構えや看板の色彩、形、内容などの制限、商店街の営業時間の申し合わせ、共同イベントの開催の取り決めなどなど多くの例があり得るが、権力的な行為ではできないこのような分野の取り決めをつくることが、行政とは別のもとして行われているとき、その温泉保養地の経営主体は自立性をもっているということができるし、また、決められた取り決めを関係者が守ることができるときその温泉保養地運営主体は自律性をもっているということができる。このように、行政が担当するべき分野と民間が担当するべき分野とが合体され一つの纏まった意思決定が行われるとき、そこに温泉保養地運営主体の確立が認められる。

 温泉保養地の占める地域及び住民が地方自治体の一部であるときは、行政の関与できるウェイトが少なくなることはやむを得ない。行政は常に公平でなければならず、一部の地域や住民にのみ有利になるような行為をすることができないのは当然である。しかし、このような場合であっても、温泉掘削の制限条例を制定し、入湯税の徴収をし、建物建築の制限をして大型リゾート開発の制限をするなどの、一見、温泉保養地のみに関係が深いような行政上の行為もそれが住民全体の福祉につながるときは、温泉保養地運営主体の判断に従い、地方自治体は行うべきなのである。

3)国民保養温泉保養地と温泉保養地運営主体

 国民保養温泉保養地は、環境省が指定する保養に適した一定条件を備えた温泉保養地である。現在91箇所が指定されている。これに指定されると環境省が実施している温泉保養地整備事業として温泉センターの整備補助金が支出される。その対象は、温泉保養地ではなく市町村とされている。市町村は、この補助金を受けるためには温泉保養地全体の計画を策定し、行政としての考え方を提出しなければならないこととなっている。このようなことから、国民保養温泉保養地のようなところは、地方自治体が温泉保養地の運営主体であるようにも考えられるが、その温泉保養地を形成する宿泊施設、観光施設などの諸施設がすべて公共で整備されているのならともかく、民間の施設で経営されているならば、そこには行政機関とは別に、温泉保養地運営主体が必要である。


国民保養温泉地鳴子温泉の街のイラスト。旅館の分布がよくわかる。

                      (鳴子町資料より)


(3)温泉保養地の運営計画

1)温泉保養地個性の把握

 どの温泉保養地にもそれなりの個性がある。温泉保養地運営主体が先ず手がけなければならないのはこの個性の把握である。次の各点がポイントである。

・温泉の特徴 湧出量、泉質、泉温、原泉数など
・自然環境 海浜、山岳、田園、景観など
・気候の状況 気候は保養地の条件として特に重視される
・宿泊施設、飲食店、商店、遊戯施設など民間企業の状況
・温泉病院の有無
・自然および歴史的な観光資源の状況
・レクリエーション施設の状況
・文化施設の状況
・周辺観光施設との連携状況
・イベントの開催状況
・交通の利便性
・その他の参考情報

 日本は、昭和30年代の高度経済成長の時代から急激に温泉地が増加するとともに温泉地のタイプもさまざまなものに分かれた。その中には温泉保養地の形式的な条件は備えているものの利用の実態から見れば、温泉は付加的な存在で主目的は観光や慰安にあるような温泉地も多くなった。このような温泉地は「観光的温泉地」と呼ばれ、療養や保養を利用の主体とした温泉保養地は「温泉保養地」と呼ばれている。両者を区分する基準はそれほど明確ではないが、温泉保養地の運営という視点からは旅館、ホテル、民宿、ペンションなどの宿泊施設の数、温泉保養地利用者の利用実態、市町村などの行政の区域に対する温泉保養地の広さの割合、温泉保養地において営業を営む業者例えばバー、劇場、みやげ物店、レストラン、芸妓店などの種類や数、自然環境の状況、文化財や歴史的な遺跡など観光資源の状況、温泉保養地としての歴史的な長さなどを基準にして分類されている。

 なお、参考として、環境庁が指定している国民保養温泉保養地の認定の条件は次のとおりとなっている。

・泉質が療養泉として特に顕著であること
・温泉の湧出量が豊かで適当な温度を有すること
・付近の景観が良いこと
・環境衛生条件が良いこと
・温泉気候学的に保養地として適していること
・医療施設および休養施設を有するか又は将来設定しうること
・交通が比較的便利であるか又は便利になる可能性があること
・災害に対して安全であること
・適正な温泉利用、健康管理について指導を行う顧問医が設置されていること

2)運営の基本理念

 運営のビジョンづくりに欠かせないのが、運営の基本理念である。例えば、草津温泉では「泉質主義」、由布院では「私のまち由布院へようこそいらっしゃいた」、長湯では「地域資源を活かした温泉地の個性化」がそれぞれの運営の基本理念とされている。このような運営の基本理念は、歴史のある温泉地では伝統的な考え方に基づいて培われてきたものであるが、それが現代のトレンドに合致するように表現され、つくられたものである。自己の温泉地の個性を確認し、ビジョンを創り上げていく過程で集約されたエッセンスが短いことばで表現されたのが基本理念であり、各温泉保養地が是非持つべきものである。

温泉保養地の運営計画には戦略的なものと戦術的なものがあるが、戦略的なものの精神を簡潔に表現したものが経営理念であり、戦術的なものを加え、それを詳しく説明したものが次に述べる運営計画のビジョン作りであろう。


草津の泉質主義のマーク

 (草津町資料より)


3)ビジョンづくり

 これらの温泉地の個性が、次に述べる内部環境及び外部環境のトレンドにどのように適合できるかを検討し、それに基づくビジョンの作成がその次の仕事である。トレンドに従うといってもその原点にあるのは基本理念であり、これを基本としなければならないことはいうまでもない。この基本を忘れトレンドにのみ迎合すれば一時的には営業的に栄えても長続きはしない。

 重要なことは、このビジョンは一部の者の構想としてではなく、温泉保養地に関連する人たちのコンセンサスに基づいたものでなければならないということである。市町村には行政を進めるための中長期的な街づくりの計画があるのが普通であるが、それが一般の市民にはよく知られていない例も多い。特に温泉保養地が市町村の一部分であるようなケースでは行政上の計画はあったとしても温泉保養地の外に居住する市民の関心は薄い。温泉保養地運営のためのビジョンは温泉保養地運営主体が自立的に策定したものであるとともに、それを進めることについて温泉保養地全体が賛意を示し、さらに、一般市民の協力が得られる自律的なものでなくてはならない。特に旅館経営者や観光業者のみならず農業、漁業の従事者、サラリーマンなどの周辺居住者の理解が得られているものでなくてはならない。また、施設の整備などのハード面のみならず客の受け入れや町の清掃などのソフト面も取り入れたものでなくてはならない。そのためには具体的かつ日常的な行動の手引きとして使える形でこのビジョンが示されていることが必要である。手帳のような形で関係者全員が持つようになれば最適である。

また、運営主体によるビジョンづくりは、一時的に行えばすむというものではない。「永続性」が必要なのである。毎年これを見直し引き続き行うもの、新しく付け加えるものなどを整理することが必要である。

 一つの例として、草津町の現在の町長は中沢敬氏であるが、伝統ある旅館の経営者でもある。企業経営者のスタイルで町役場の各部局を指揮されている。温泉の活用を含めた新しい感覚の企画に関しては、企画創造課を新設し、新しい事業の集中的な取組によりビジョンづくりを行っている。これらの活動が、草津町を地方交付税の不交付団体としているが、独立性の強い温泉保養地の運営のモデルでもある。これは、行政と民間企業とが一体となった温泉保養地運営主体が確立していることに基づいている。

(4)運営計画における内部環境と外部環境

1)内部環境

 温泉保養地の運営計画を樹立するときに配慮しなければならない二つの側面に内部環境と外部環境がある。内部環境は、自己の温泉保養地の個性から導かれる内部的なトレンドの問題である。温泉保養地を構成している旅館や商店などの民間企業が経営者として何を望んでいるかの把握である。また、公共施設の管理者が、行政としてはどのような方向に進みたいと考えているかの把握である。民間企業の目的は最終的には営利の獲得であるが、営利のみを追求してるわけではなくその経営の過程での自己実現を望んでいる。どのような経営を望んでいるか、ひいてはどのような温泉保養地を創りたいと考えているのかどのような客を望んでいるのか、どのような街づくりをやりたいと考えているのかなどなどいろんな考え方をもっている。また、公共施設の場合は、設立時に利用目的が決められており基本的にはそれに制約されているが、その範囲において、管理者は自由に運営ができる。特に、住民と観光客の交流を狙った施設などは、運営の独創性が求められており、民間企業と同様な自己実現の欲求が存在している。運営計画の樹立にあたっては、このようなトレンドを把握することが必要である。

2)外部環境

 運営計画の樹立にあたって、必要なもう一つの側面は外部環境の把握である。温泉保養地は余暇の受け皿という立場であるので、その時々のライフスタイルに適合しなければならないという宿命を負っている。昭和30年代、40年代の温泉保養地は、観光的温泉保養地になったものが多いが、社会経済の状況がそれを求めたからである。とすれば、温泉保養地の宿泊者が減りつづけるような場合は、その温泉保養地が現在の社会経済の状況に適合していないからではないかという観点から見直す必要がある。これを適合させるには社会が求めるものが何かを把握し、自分の温泉保養地のどこにそれがあるかを見つけ出さなければならない。これが外部環境の把握である。現在必要な視点としてつぎのものが指摘される。

a.少子高齢化社会
 世界に例を見ない急速な少子高齢化は、現在、日本の最も大きなトレンドである。高齢人口の増加は、高齢者向けの施設やサービスの設置の必要性を増大させると共に、若年者が利用する施設やサービスの需要が減少することとなる。スキー場の利用が最盛期に比較し半減しているのが現状でありそれが典型的に現れている例であろう。また、高齢化社会への対応として、町や施設のバリヤフリー化は特に大切となる。

b.健康志向
 高齢者は若年者に比べ病気にかかりやすく健康について関心が高いから、高齢人口の増加は、社会全体の健康への関心を当然に高める。また、高齢者のみならず、日本社会全体が健康への関心を高めているのが現在の日本の状況である。健康日本21の政策や健康増進法の施行はそれを示している。もともと温泉保養地は、健康志向型のものであり伝統的にも療養、保養、休養の三養が温泉の効能と考えられていた。経済の高度成長の頃、このことが忘れ去られていたが、バブル経済の崩壊以降、再び健康志向型の利用が一般的になってきた。温泉利用指導者やバルネオセラピストの民間の資格制度がつくられ、これらの人材を配置する温泉地も増えてきている。

c.温泉地の急増
 環境省による統計では現在温泉地数は3千を越えている。1973年には約2千であった温泉地数が約30年の間に千箇所も増え5割の増加となっている。この中には、ふるさと創生事業で市町村が掘削した1軒宿の温泉地がかなり含まれているので、これがすべて温泉保養地となるわけではないが、競争が激しくなっていることは間違いない。各温泉地が自己の個性を発揮しそれにより、固定客を獲得する時代がきている。


温泉地数と利用源泉数の推移


d.利用の多様化
 バブル経済の崩壊以降、温泉地の利用は多様化している。それまでは団体利用、宴会利用に対応できていればよかったが、グループ、家族などの個人利用が多くなり、利用の目的も観光、保養、湯治、スポーツ・レクリエーション、会議などに分かれている。また、最近ではB&Bといわれる宿泊場所からの夕食は抜きのサービスを好む利用も増えている。
日本の温泉旅館は、今も夕食の提供が大きなウェイトを占める経営が行われているが、健康志向のトレンドから、大きな変化が起こりうる。旅館の経営について常に視野に入れておくべき傾向である。

e.市町村の合併
 市町村の合併は、新しい時代への適合と行政の効率化を目的として政府が推進している。温泉地をもつ市町村が、他の市町村と合併する場合も最近の傾向として良く見られる。両方の市町村に温泉地がある場合もある。温泉保養地運営主体には、地方自治体が参加しているので自治体の変更は、温泉保養地運営主体にも影響を及ぼす。特に条例で温泉掘削の制限や建物の建設制限を行っている場合は、合併後もその制限が引き継がれなくてはならない。これが引き継がれるか否かは温泉保養地運営主体の自立性が確立しているかどうかに懸かっている。市町村の合併は、住民福祉の観点から行われる次元の高い判断に基づき行われるのであろから、大いに促進すべきことではあるが、この意味でも温泉保養地運営主体の自立性が必要なのである。

f.国際化の進行
 日本における国際化の進行はあらゆる局面でみられる。観光旅行の面でも、日本人の海外旅行者は、年間1600万人を超えている。このため、温泉保養地を訪れる人たちは海外の観光地と日本の温泉保養地とを比較し評価することができる。したがって、外国の状況を常に把握しておかなければならない状況となっている。それを知らなければ、国内観光の空洞化が一層進むこととなる。日本人の海外旅行者の数に比較し、外国人の日本来訪者は三分の一程度と少ないが、最近におけるビッジトジャパン政策などの努力によって、かなり増加する傾向にある。これらの対策も重要である。

g.情報化社会
 日本の社会の情報化は目覚しいものがある。特にインターネットの活用により、各温泉地の情報は、簡単に入手できるようになっている。温泉保養地のホームページを比較してみると旅館の宣伝だけで終わっているいるようなところから、歴史までも詳しく説明しているところまでさまざまな状況である。情報化社会での温泉保養地運営は、情報の発信を大切にすべきであろう。


2 温泉保養地の運営事例
【湯布院】
(1)概要

1)湯布院町は大分県のほぼ中央(東経131度・北緯33度)にある。大分空港か
ら別府まで専用特急バスがあり約35分、別府からはバス又はタクシーを乗り継い
でさらに35分かかる。また、博多から由布院駅まで2時間10分である。アクセ
スはいいほうではない。
2)東西8km、南北22kmで面積は128平方キロメートルである。
3)海抜400m〜600mの高原の町である。町の北東端に豊後富士といわれ
る由布岳がそびえ、自然の豊かな町である。
4)人口は約11,600人。4100世帯である。
5)年間観光客数は約380万人である。
6)塚原温泉、由布院温泉、湯平温泉の三つの温泉保養地がある。由布院温泉は
単純温泉であり、740を超える源泉孔から毎分4万リットルの温泉が湧出してい
る。また、この温泉保養地にある金鱗湖の湖底からもお湯が湧出しており、全国
で第3位の湧出量である。湯平温泉は歴史が古く鎌倉時代からの温泉といわれて
いる。塩化物泉であり、湧出量は毎分約900リットルである。塚原温泉は、標
高1045mの伽藍岳中腹にある。硫酸塩泉であり皮膚病に効能があり、源為朝
が傷を治したという言い伝えがある。


湯布院町の位置

     (湯布院町資料より)


(2)特徴

 由布院は、今、日本で最も人気ある温泉保養地の一つである。観光経済新聞が2003年度行った「SPA BEST 100」では3位にランクづけされている特に女性の間で人気が高いといわれている。人気の理由は、町をあげてのおもてなしと街の美しさにある。タクシーの運転手、商業の人たち、農業の人たち、一般住民など、直接観光や温泉に関係のない人たちがすべて来訪者を歓迎してくれるホスピタリティのよさが大きな特徴となっている。温泉保養地づくりのキーパーソンの一人である溝口薫平氏は、「『私のまち、“由布院”へようこそいらっしゃいた。』いろいろな層の人々が、そう思ってお客様を迎える。それが由布院のおもてなしだ」と述べておられる。つまり、自分たちの日常の生活をありのまま提供し、来訪者のために住民が犠牲になることもなく、自分らの日常生活の中で楽しんでいってもらうところに由布院らしいおもてなしがある。これは、発展の経緯のところで述べるように、保養温泉保養地づくりの過程において、岩間町長が提唱した三つの区分、産業、温泉、自然の山野を別々に考えず、一体化させ、助け合って町づくりを進めたことに成功の鍵がある。

 街づくりについては平成2年9月に「潤いのある町づくり条例」が制定されている。この条例の基本理念は第2条に規定されており次のように述べられている。「美しい自然環境、魅力ある景観、良好な生活環境は、湯布院町のかけがえのない資産である。町民はこの資産を守り、活かし、より優れたものとすることに永年のあいだ力をつくしてきた。この歴史をふまえ、環境の保全及び改善に貢献し、町民の福祉の向上に寄与すべきことを基本理念とする。」永年積み重ねられてきた由布院の街づくりを、この条例によって、より確かなものとしており、大企業による乱開発を防いだ経緯がある。例えば、1千平方メートルを超える土地造成行為や五階以上のリゾートマンションなどの建設は事前に町長に協議しなければならず、町長は必要に応じて審議会の意見を聞くこととなっている。このような町をあげての町づくりが、湯布院の大きな特徴であり人気を支えているのである。

(3)発展の経緯

1)保養温泉保養地構想のスタート

昭和30年、由布院町と湯平村が合併し湯布院町が誕生したがこの頃の由布院は農業が主幹産業の小さな温泉保養地であった。初代の岩男町長が所信表明の中で「今後の町づくりは、産業、温泉、自然の山野の3つを統合し、ダイナミックに機能させてゆくことが必要である」とし、湯布院町保養温泉保養地構想が始まった。すぐ近くに別府市があり、「由布院は温泉だけに頼っていたら、歓楽街のある小さな別府になるだけだ」というのが岩男町長の考えであった。


昭和30年代の由布院駅前の様子

           (湯布院町資料より)


2)明日の由布院を考える会の発足

 昭和45年7月湿原植物の宝庫といわれる猪の瀬戸にゴルフ場開発の情報が流れ、これを阻止するために「由布院の自然を守る会」が結成されたが、この事件が契機となって明日の由布院を考える会が結成された。この会において、町づくりに関する新しい考え方をどんどん取り入れ広いビジョンで町づくりが始まった。この活動の中で「牛1頭牧場運動」が生まれた。これは1口20万円で都市に住む人たちに畜主になってもらい利子代わりに由布院の特産物を毎年送る。農家は牛を飼うことによって、稲作の機械化によって原野が荒れるのを防ぐという考え方であった。これは広く共感を呼び110人を超えるオーナーが集まった。「牛喰い絶叫大会」は、この企画から生まれたイベントである。また、この時期、志手康二、中谷健太郎、溝口薫平の3人が借金をしてドイツの保養温泉保養地を視察し、その結果、ゆふいん音楽祭や湯布院映画祭のイベントが誕生した。

3)クアオルト構想の浮上

 岩男町長が国際会議でヨーロッパに渡ったとき、ドイツの伝統保養温泉保養地を視察し、そこに理想の保養温泉保養地の姿を発見し、湯布院クアオルト構想が始まった。昭和46年、前記の3人が再びドイツの保養温泉保養地を視察したほか、53年5月には、観光協会をはじめとする官民合同の西ドイツ視察団が結成され、帰国後官民合同の湯布院クアオルト構想が進められた。昭和56年環境省から国民保養温泉保養地の指定を受け、町は方向性をはっきりと見定めるようになった。「最も住み良い町こそ優れた観光地である」との考え方がその基礎であった。このような過程を経て、湯布院は一躍全国にその名前を知られるようになった。

(4)観光客の動向

 昭和45年のデータをみると宿泊客は72万人、日帰り客は38万人、宿泊施設数は92軒であったものが、最近では年間約400万人の入込みがあり、内宿泊客は約100万人であり繁栄を極めている。日本経済のバブル崩壊以降も逓増している。町人口は1万人であるが、毎日人口と同数の訪問客がある。11月の平日でも、京都太秦の映画村周辺や夏の軽井沢銀座のように土産物のショップやブティックミュージアムが立ち並び、多数の修学旅行生や熟年グループが店舗街や野良道を徘徊している。また、玉の湯界隈や亀の湯別荘はいわば映画のセットのような状況と化している。

 例えば有名な老舗旅館「玉の湯」では、中高年の数泊滞在が増えている。「玉の湯」と由布院のほかの旅館に滞在するケースもある。リピーターも多く、正月には「なじみ客」が集まる。客室稼働率は9割を超えているので、予約できない状況である。また、厚生年金病院の保養ホームは長期滞在客で一杯であり、予約できない状況である。

(5)環境問題

1)バブル時代、外から企業が進出し、外部資本による乱開発を阻止するため、景観条例を定め、5階以上の施設建設を阻止したことについては、すでに述べたが、最近ではバブル時代に買収された企業用地で、旅館街に近い敷地については住民が買い戻しをして、乱開発を防いでいる。また、町村合併について検討をしているが、「景観条例」を統一できるかということが新たな問題を提起している。

2)バブル時代には、企業による大規模開発ばかりでなく、様々な店舗や飲食店も進出している。観光地として成功すると、これら小規模なサービス産業が生じ、増加する。また、それに応じて、就学旅行生や行楽客の日帰り客が温泉街にあふれる。観光地への人の流入による環境負荷といった問題が生じている。静かな環境を求める保養滞在客にとっては、環境悪化につながる。

3)生活排水については、旅館は個別浄化をして河川に放流しているが、一般住宅はそのまま放流している。

(6)交通実験

1)「交通実験」により、温泉保養地への自動車通行規制についてはほぼ合意されているが、歩道整備、パーク・アンド・ライドのための道路整備については、町の負担があるので、財政的に難しい。

2)温泉街で駐車場経営をしている住民対策も課題である。由布院の道路や歩道はあぜ道を拡幅したり、河川堤をそのまま利用しているものが多い。歩道と車道が区分されている区間は駅前などに限られている。また、舗装面も一定していないのが現状である。

(7)健康づくりへの取組

1)「クアージュゆふいん」は町立温泉館として整備されたが、民間委託で運営されている。平成10年、町は直接運営をすることになり、健康相談室に保健師を常駐させることとしている。施設内で健康チェック(血圧、体脂肪)、健康指導・栄養指導などを行い、また水中運動療法教室などを開催し、平成12年から14年にかけ、水中運動リーダー養成講習会を開き、60人のボランティア組織(きらきら会)が生まれている。

2)この温泉館を町の健康事業のセンターとすることによって、様々な効果が現れている。第1は成人病の治療効果が見られ、国保保険者の医療費が低減したことである。第2は介護施設の利用者が温泉館の利用に転換し、介護保険の給付金が減少したことである。第3に水中運動指導などの保健事業に住民ボランティア組織が積極的に参加することによる費用対効果の向上が図られたことである。

3)現在、利用料金は町外800円、町民300円であるが、町外から定期的に訪問する人々も多い。

4)従来行われていた町役場の健康相談室では、健康相談に来る住民はいなかったが、この温泉館に切替えてからは気軽に相談に来るようになった。

5)保健師がケアマネージャーになる場合が多いが、この例から考えると保健師は福祉サービスではなく、健康サービスに生かすべきである。


町立の健康温泉館「クワージュゆふいん」の玄関

             (湯布院町資料より)


(8)体験型宿泊施設(フローラハウス)

1)由布院はどこでも掘れば温泉が湧く土地である。Aさんは由布院がさほど有名ではなかった昭和40年前半に、由布院の田園地域に暖かい住宅を構えようと農地購入を思い立った。しかし、農業用地では農業をすることが条件で農家住宅を建てることができる。かつて由布院では別荘族が高価な蘭を持参し、別荘生活を楽しんでいたので、温泉熱を利用したグリーンハウスで蘭栽培を行うこととした(当時は農業ではないといわれた)。グリーンハウスで栽培したもののうち残りものを販売するようになった。類は友を呼ぶというように、機織の先生がやってきて、機織を教えるからやってみなさいといわれ、機織などを仲間と一緒に楽しんだ。仲間が宿泊する施設や自分が引退後に生活する場所が欲しいと考え、一階は機織などの居間、2階は3部屋の居住スペースをつくった(バリアフリーのための斜行式エレベータも設置した)。また、温泉浴場も造った。こうして農業体験施設としていつの間にか命名されてしまった。

2)フローラハウスの敷地は農地を次から次へと譲ってもらったもので、敷地内には安藤さんの住宅、グリーンハウス(胡蝶蘭など)、体験施設(販売コーナー、創作室)、宿泊体験棟、温泉施設、農地(ハーブなど)がある。温泉は2本あり、60度と80度である。男女別の浴室は仲間が作ってくれたそうで、小規模旅館の浴室よりも大きい。


【長湯温泉】
(1)概要

1)直入町は大分県の西南に位置し、久住連山の東山麓にあって熊本県境に近い。大分市から車で国道442号及び県道412号を通って40分である。また、JRの豊後竹田駅からバスがでており、町の中央部分にある長湯温泉まで40分である。アクセスはいいほうではない。
2)町の面積は約84平方キロメートルであり湯布院町の3分の2ぐらいの広さである。
3)標高340m〜999mで一部急峻な部分もあるが概して丘陵性の高原の町である。町を横断している芹川に久住山群からの河川が流れ込み起伏が多く、自然の豊かな町である。
4)人口は約3000人。約940世帯である。
5)年間観光客数は約67万人、うち宿泊利用者は約14万人である。日帰り観光客が毎年伸びている。
6)長湯温泉の泉質は二つある。一つは二酸化炭素泉ともう一つは重炭酸イオンとアルカリ土類金属(カルシウム、マグネシウム)を多量に含んでいる炭酸水素塩泉である。湧出量は豊富で毎分2500klと日本一である。利用源泉は、すべて掘削泉であり45m〜300mの範囲ですべて自噴している。
7)宿泊施設は全部で16軒であるが、定員12人〜79人の規模である。

(2)特徴

 長湯温泉の特徴は「地域資源を活かした温泉保養地の個性化」を基本として温泉保養地運営が行われていることにある。その地域特性を濃度の濃い炭酸泉に見出したことが成功の鍵である。長湯温泉が濃度の濃い炭酸泉であることは昭和6年に行われた九州大学の調査ですでに明らかにされており、これを全国的に売り出す試みは昭和8年から16年までかなり精力的に行われたが、戦争のために成功を見ないままに終わっている。その後、昭和30年代から40年代の日本の経済の高度成長期に、多くの日本の温泉保養地が温泉の療養機能や保養機能を忘れて、一律に遊びの温泉保養地に変わり、個性を失っていったのに反し、長湯温泉は濃度の高い炭酸泉の効用を信じ、これを地域の個性として温泉保養地運営に乗り出した。泉質別の温泉の効能は現在ではあまり重きを置かれていないが、炭酸泉の場合はその効果が比較的明らかであることに着目し保養型の温泉保養地づくりを進めたのである。神奈川県の七沢リハビリテーション病院長であった中村昭先生は、「温泉治療と効能の関係が比較的わかりやすいのは、皮膚疾患に関する入浴療法、消化器疾患に対する飲泉療法、循環随質に対する炭酸泉浴などである。」と述べている。

 特徴の二つ目は国際交流である。同じ炭酸泉を活用しているバードクロツインゲン市やバードナウハイム市と交流を深め、ドイツ流の温泉医療を取り入れている。飲泉もその一つである。町にはドイツ村がありそこには簡易宿泊所や飲泉場があるほか町の中にチェコのカルロビバードから送られた飲泉場がある。また、バードクロツインゲン市からワインを直輸入しそのワインにふさわしい生ハムを作るなど食文化の上での交流も盛んである。さらに、人材交流も盛んであり150を超える町民がドイツを訪問しドイツからも120名以上の人たちが訪れている。

 特徴の三つ目は過去の長湯温泉の使われ方を復元するため「外湯めぐりの文化」を大切にしていることである。また、これが、外湯めぐりをするために町を散策する人を増やし、そのための町づくりを促進している。現在そのための施設として長生湯、御前湯あり、御前湯の利用者は年間15万人を超えている。また、御前湯の利用者に対する食事や飲み物の提供は地域の店から提供することとなっており、地域全体の繁栄方策を講じている。さらに観光と農業との接点についても地域の農村からの食材の活用や農家での民宿を楽しむシステムを模索するなど努力が払われている。外湯の活用が地域全体の活性化につながっているのである。

 特徴の四つ目は人材の育成である。行政と民間とが一体となって温泉保養地運営を進めるため行政の中にも専門家を育てたことである。この中でキーパーソン首藤氏が育ったのである。

(3)発展の経緯

1)古い記録

 直入町は温泉と農業の町であるが、温泉利用の歴史は古く16世紀の頃から湯原温泉という名称で療養泉として利用されていた記録が当時の庄屋であった甲斐家の文書に残っている。名称の由来であるが、炭酸ガスを豊富に含む温泉は低温であるため、長時間の入浴になる。つまり、長湯になる。

2)発展の基礎活動

 昭和6年に九州大学別府温泉治療学研究所が、湯原温泉の調査研究を行った結果,「極めてまれな温泉」であることがわかり、これを契機に、湯原、桑畑地域の温泉を統合し長湯温泉が始まった。ドイツのカルルスバードで温泉治療学を学んだ九州帝国大学の松尾武幸博士が、昭和8年長湯温泉の炭酸ガスの濃度が高いことを知り、長湯を訪れ、当時愛泉館という旅館を経営していた御沓重徳氏とともに、長湯の温泉研究と全国的なPRに乗り出した。松尾博士が詠んだ「飲んで効き長湯して利く長湯のお湯は心臓胃腸に血の薬」という歌は今も語り継がれている。この事業は、第2次世界大戦の勃発により目的を果たさず終わってしまったが、このとき松尾博士から伝えられたドイツの温泉医学や温泉保養地のあり方などの知識が、今日の長湯温泉発展の基礎とドイツとの交流の基礎を築いている。

3)個性づくりの始まり

 長湯温泉の個性づくりが本格的に始まったのは、昭和50年代でありそれまでは知名度低い温泉保養地であった。1978年環境庁から国民保養温泉保養地の指定を受けその方向性が明確になった。1989年ドイツとの交流が始まり、1992年には国際温泉シンポジウムが開催されている。また、1993年には飲泉場が整備され1998年には外湯が整備された。この頃になると毎年利用者が増え続け、多くの温泉保養地と違って盛況を極めている。ここに至ったキーパソンは首藤勝次氏である。最近においても源泉掛け流しと湧水ブームにより観光客は増え続けている。また、町づくりが続けられており、平成15年には農産物直売所水の駅「おづる」が完成し、長湯ダム公園や桑畑地区に水汲み施設が整備されている。平成15年度の観光客は70万人に達しようとしている。5年前に町営温泉施設の「御前湯」や飲泉所を整備し、対岸の山を公園とするなど、温泉保養地づくりとともに炭酸泉の効果のPRに努めた。こうして、アクセス条件が良いとはいえない長湯にも遠方からの訪問客のある温泉保養地に生まれ変わった。


長湯温泉の観光動態調査


御前湯の利用状況



(4)最近の温泉保養地づくりの状況

1)ラムネ温泉

a.最も炭酸を含む温泉(源泉)がラムネ温泉である。泉温は32度である。長らく利用されていなかった温泉であるが、首藤氏らは44度の温泉の掘削に成功。温度の異なる2つの温泉を合わせて用いることにより、快適な入浴ができると考え、地区居住者と協力して共同浴場を開設し、「ラムネ温泉」と名づけた。

b.ラムネ温泉は地元民が共同管理をする浴場で、数坪の更衣室と露天風呂(高温浴槽3つ、低温浴槽1つ)からなる簡素な浴場である。外部利用者の料金は100円で、料金箱に入れて入る。外部利用者は料金から推定すると、年間6万人、1日当たり160人がこの小さな仮設的な浴場を利用している勘定である。これには、地元民及び料金を納めない人は含まれていないので、200〜300人の利用がなされているものと推定されている。現在、ラムネ温泉を本格的な浴場にする計画が進められており東大の藤森教授に設計を依頼している。

c.低温のラムネ温泉は男女浴場をあわせ毎分200〜300リットル、高温の温泉は500リットルである。従って、掛け流しなどではなく、掛け捨てといった贅沢な利用方法である。入り方は特段指導されてはおらず、高温浴槽でかぶり湯をし、身を清めて、浴槽で体を適度に温め、低温浴槽に浸かる。炭酸ガスの細かい気泡が手足、体中にくっつき、やや暖かくなる。20〜30分も浸かっていると飽きてくるので、高温浴槽に浸かり、再びラムネ温泉に向かうといった循環交互浴で大体40分から90分の入浴時間である。心臓病や不整脈、高血圧の持病をもつ顧客がいるがこの人達からは、午前中に1時間半、午後に1時間半を浴場で過ごし、自動車を運転して自宅に帰るが、この温泉は湯当たりせず、疲れないといわれている。

(2)新湯治旅館

 ラムネ温泉から川沿いの道を歩いて5分の場所に、新湯治旅館「天風庵」が平成16年9月にオープンした。1階は食堂で2階に和室(宿泊施設)があり、全体の雰囲気は道後温泉の木造建築を思い出させる。朝食付き、2食付きから選択でき、長期宿泊可能な料金設定である(朝食付き4800円〜、2食付き7000円〜)。天風庵の隣にはガニ湯屋台村があり、各種食堂がある。この天風庵には浴場はない。滞在客は徒歩圏内にあるラムネ温泉、町営長生湯、町営御前湯又は川の中に造られた露天風呂「ガニ湯」を利用し、天風庵で休養し、英気を養いなさいといった趣向である。

【草津温泉】
(1)概要

1)草津町は群馬県の北西部に位置し、東西9km・南北8km、総面積は49.7kmである。。北と西には三国山脈の2,000m級の山々がそびえ、一方、東と南は海抜約1,200mの高原となって開けている。また草津町は日本列島のほぼ中央に位置しており、上信越高原国立公園に含まれ、草津白根山周辺は太平洋と日本海の分水嶺となっている。
2)気候は理想的な高原性気候である。1年間の平均気温は摂氏7度で、真夏でも摂氏25度以上になることは滅多にない。風は平均して1.5〜3m、春から夏にかけては南東のさわやかな風が、秋から冬にかけては北西の風が吹き、冬の風は粉雪を降らせるバスで約25分で草津町の中心に着く。また、自家用車の場合は東京から関越自動車道で渋川・伊香保インターまで約100キロそこから約50キロである。高原の温泉保養地としてはアクセスはいい方である。
4)人口は約7800人、約3600世帯である。
5)年間観光客数は約300万人である。


草津町の位置

         (草津町資料より)


(2)特徴

 先に述べた二つの温泉保養地と異なり、草津は温泉保養地として古くから有名なところである。江戸時代の温泉番付において東の草津西の有馬といわれ当時のトップの温泉保養地である。今も人気が高い。その特徴は、一つは温泉資源の豊かさである。草津の温泉泉水は、草津白根山東方斜面の地域で地下に浸透した降水が、東方に流下する途中で、東西方向の草津断層を通路として深部から上昇してくる高温のガスや熱水と接触して温泉水となり、西の河原や湯畑に湧出するものといわれているが、町の中央にある湯畑は、訪れた観光客を感動させる場所となっている。また、草津温泉の泉質は高温の酸性泉であるが、これが昔から医療効果の基となっており、この湯量と泉質が、現在の草津温泉の「泉質主義」を生み出している。二つ目は、気候風土の快適さである。概要のところで述べたように保養地としての条件に最適の場所であり、日本の温泉医学の父といわれているベルツ博士が、絶賛したところである。三つ目は歴史の長さにある。戦国時代から戦場での傷を癒すのに使われ、江戸時代は多くの湯治客を集め、またその湯は将軍へ献上されたこともある。これらの永い経験が温泉保養地経営に今も伝統として伝えられ、草津の個性を創り上げている。現在草津で行われているいろいろのイベントは伝統によって培われた温泉保養地の経営の精神に基づくものであろう。

(3)発展の経緯

 草津温泉の発見については、日本武尊や僧行基に関する伝説があり、また、承久の乱以降は源頼朝によって名を与えられた湯本氏が草津地方を領有した。戦国時代に入ると、草津周辺の西吾妻一帯は武田信玄の支配領域に入り、真田氏が統治を始め草津温泉など13箇所の温泉保養地の湯銭が財政を潤したといわれている。その後、江戸時代に入り、草津は幕府の直轄領になり、代官によって治められた。この時代に出版された全国温泉番付には常に東の大関に格付けされ有名な温泉保養地として栄えてきた。特に幕府が療養地として保護をしたといわれている。この頃の草津はまだ外湯の時代で、幕末には17箇所の共同浴場と12通りの入浴法があった。

 明治に入るとドイツの医学者ベルツ博士によって温泉保養地として高い評価を受け、その自然環境と泉質が世界一級のものとして絶賛された。ベルツ博士は草津に温泉保養施設を建設しようとしたようであるが、温泉が入手できないなど時間をかけている間にドイツに帰国してしまい、結局は実現しなかった。一方、明治時代には26年には信越線が開通し草津までの交通が非常に便利になり近代化にいたる基礎が次第に整えられた。

 第二次大戦の時期はどの温泉保養地も客が減少したが草津も例外ではなかった。東京近辺の学童疎開の宿泊先として使われたり傷痍軍人の療養に使われたりした。日本全体が戦争に巻き込まれた時代であり温泉どころではなかった時代である。

 太平洋戦争の終結を契機に日本は大きく変わったが、草津もそれまでの療養型の温泉保養地から、観光的な要素を取り入れ現代的な温泉に変身を始めた。スキー場の開発、総合的な温泉リゾート施設の開発、国立公園地域に指定、交通機関の発展、特に昭和元年から昭和37年までは草津・軽井沢間に草軽電鉄が走り多くの利用者を運んだ、昭和30年代から始まった日本の高度経済成長の波に乗ってリゾートマンションの開発ブームが起こり、日本の多くの温泉保養地と同じように観光中心の温泉保養地になるような傾向が見られると共に自然環境を守る必要が生じた。景観条例の制定により開発の規制が行われ、湯畑地区をクラシック草津、高原地区をニューKUSATSUとして区分をし、伝統的な文化と景観を壊さないよう工夫が行われた。また、昭和45年に万代硫黄鉱山から大量温泉が湧出したのでこれを草津町が引湯し新しい高原地区の大型ホテルにまで温泉を提供できることとなった。これにより、草津温泉の宿泊規模が大きく拡大された。昭和55年からは草津夏期国際アカデミー&フェステヴァルが開始され今も続けられているが国際的にも高い評価を得ている。

 このような歴史的な流れと古い伝統が、今日の草津を実現している。

 また、日本の多くの温泉地はバブル経済崩壊後は急激に利用者が減ったところが多いが草津温泉は逆に増加する傾向を見せており草津の魅力を示している。


草津温泉の利用状況

           (草津町資料より)


(4)温泉保養地づくりの基本方針

1)観光振興における組織づくり、人づくり

 観光事業はよく装置産業といわれるが、これからはハード面での事業展開よりも観光地を支える組織づくり、人づくりが重要であるというのが草津町の考え方である。組織を支える一人一人が「仲良く」なるということが重要であるがその意味は、単なる仲良し集団を意味するものではなく、互いを認め、聴く耳を持ち、意見の違いはあっても論議をして、方向性を探り、行動に結びつけようとする意識である。これが組織づくり、人づくりの土台に必要と考えられている。

2)快適空間の創造による、歩きたくなる観光地づくり

 草津の魅力と云えば、やはり温泉の泉質が非常に優れていること、湯畑や西の河原公園といった他の温泉保養地にないエリアがあることが草津の個性である。また、環境省の「香り百選」にも選ばれたように、温泉の香りも重要な魅力でありこれらを基本とした街づくりが目指されている。

 長期的には「温泉と高原・文化とスポーツの国際温泉リゾート地」つくりを目指している。その一つは、「泉質主義」をキャッチフレーズに温泉の泉質の良さを推奨し、温泉と健康の街づくりである。近年、国民の健康意識の高まりや高齢者医療費の増大等で、疾病予防や健康づくり対策が強く要請され、「健康日本21」、「健康増進法」が制定された。生活習慣病の予防、治療には、温泉の効果だけでなく、観光そのものも予防医学の一環であると考えられている。二つ目は、温泉と並ぶ新たなアクティビティの形成でスポーツの町を目指している。冬のスキー以外に、草津にJリーグを目指したサッカークラブチーム「ザスパ草津」がある。選手達は、夜は草津町の旅館や商店で働きながら練習を積むというユニークな仕組みであり草津の個性を表している。この他にも、標高が高いという草津の地理的条件を活かした高地トレーニングや、温泉とスポーツ医学とのドッキングなどの面で様々な需要があるはずと考えられている。

三つ目として、発展の経緯のところで述べた夏期国際音楽アカデミー&フェスティバルなど各種のイベントが重要な草津の個性と考えられている。


西の河原公園

        (草津町資料より)


3)「ONSEN」を世界語に、日本ブランドとして発信

 最近、ビジット・ジャパンの一環として、JR東日本、JALとのプロジェクトによりインバウンド商品「草津バウンド」がスタートした。外客誘致にあたって「温泉」
を日本のアイデンティティとして、よく言われる「HOT SPRING」ではなく、「ONSEN」という言葉で世界にアピールする方針である。日本は、温泉が豊富な国であり、温泉保養地に日本の文化が宿っていることを世界に知って貰うには、温泉文化を日本ブランドとして発信し世界的な温泉場を目指している。

4)泉質主義を原点として

 日本は今までいろいろなものを切り捨ててきたが地方にはよいものがたくさんある。それを再生し、さらに外部からとり入れたもので、泉質主義を原点として自分たちの持つ魅力の再認識と、その魅力を守り、新しい魅力をさらに創り出して行くことが現在の草津町の基本的な方針とされている。

(5)行政からの具体的取組

 上記の基本的な方針に基づき、草津町は行政面から次のような取組を行い、観光の街づくりに努力が続けられている。

1)モータリゼーション対策

 「歩きたくなる観光地づくり」をスローガンとして平成15年度の事業として。

3)草津町は、高崎・上越・吾妻線が利用でき、東京から約2時間半で長野原駅に着く。そこから歩行者天国、パークアンドライドの社会実験を実施した。具体的には5月2,3,4日の3日間、草津町の旧市街地に車の乗り入れを禁止し、東西2kmの遊歩道〜道路を歩かせるといった実験であった。西端の駐車場に駐車し、旧市街地は歩いてもらい、西端の駐車場から東端のまではシャトルバスを運行した。バス利用は約6000人、駐車場利用は約3000台であった。

2)環境対策

a.給湯事業 昭和51年(1976)に温泉の熱を利用し、塩ビパイプに温泉を流し、水を温めて地域に給湯することを始めた。独立採算事業で行っているが収支のバランスはうまくいっている。

b.融雪事業 温泉の廃湯(38度)を道路下に導管・埋設し、冬季の融雪に利用している。

c.地球温暖化(炭酸ガス削減)対策 2003年からNEDOの新エネルギービジョン策定事業を実施している。温泉熱(湧出時94.5度〜給湯時54度の温度差)を利用し、カリーナ発電を行う計画である。カリーナ発電とは冷媒としてアンモニアを用いる方法で、高い効率が見込まれる。これを利用して、湯畑の夜間照明を当面やる予定(50kW)である。今後、1000kWに増やすので、2000世帯に利用可能である。なお、現在草津町は約3600世帯であるので、2000世帯になれば半数をこえることとなる。

d.温泉排水対策 一つは温泉水中和対策である。草津の源泉は湯川を流れ品木ダムに注いでいるが、湯川の途中に石灰ミルクを注入し、強酸性の温泉を中和している。石灰注入プラント施設は環境体験アミューズメントセンターとして公開している。
 二つ目は、砒素他の除去対策あるいは捕集装置の開発である。温泉には砒素があるため、日本原子力研究所(高崎)、品木ダム水質管理事務所と協力して、温泉水中の有用金属捕集素材を開発し特許を申請済みである。グラフト捕集材によって、砒素、ホウ素、金、銀などの金属除去ができ、また、純粋な金属が捕集できるため、高価で売却できるので事業を検討中である。また、ホウ素除去は全国の温泉旅館にとって死活問題となっているので、温泉導入管にカセット的に取り付けられる簡単な装置を開発したいと考えている。

3)リゾートマンション対策

 バブル時代にリゾートマンションが大量に作られたので、これを生かすため、「ITビジネスモデル地区」に名乗りを上げ、検討している。リゾートマンションを、SOHOとして利用したい。

4)町のホームページ
 草津町ホームページは、英語・韓国語・中国語でも作っておりインターネット時代に対応している。

5)イベント
 人口の9割が第3次産業従事者であり、宿泊客の増大が住民利益につながるので行政としてもイベントに力をいれている。白根神社の祭りから、ラクビー・サッカー大会、ツールド草津・2デイウオーク大会などを展開している。また、草津音楽アカデミーは、全国的に知られてきた。継続することが重要であと考えている。

6)温泉効能実験
 民活機構は箱根などの温泉効能を実証しており、草津も急遽この実験に加えてもらい、平成16年度から開始する。



参考文献
1 山村順次 新版 日本の温泉地 日本温泉協会
2 小泉允圀 岡崎昌之 林 亜夫 都市・地域経営 放送大学教育振興会
3 白倉卓夫編著 草津温泉
4 ホテル旅館ハンドブック1999 レジャー産業研究所
5 工藤達男(専修大学教授) 経営基本管理 日本マンパワー
6 井上昌知 健康と温泉フォーラム記念誌2000 生き残れる温泉地経営
7 首藤勝次 健康と温泉フォーラム記念誌2000 生き残れる温泉地経営
8 溝口薫平 健康と温泉フォーラム記念誌2000 由布院らしいおもてなし
9 井上昌知 健康と温泉フォーラム記念誌2002 湯本温泉地のリニューアル
10 中沢敬  健康と温泉フォーラム記念誌やまなか 温泉保養地の再生と創造



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