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日本の温泉地再生への提言 [22] -第1グループ 官庁・自治体

住みたいまちは訪れたいまち

西村 肇
(兵庫県) 城崎町長


城崎温泉の概要

 古より多くの文人墨客に愛された城崎温泉は、温泉街全体を一つの大きな旅館と考え、駅は玄関、道路は廊下、旅館は客室、物産店は売店、外湯は風呂と見立て、これをまちづくりの基本としています。
 温泉街の中央を流れる大谿川に沿って柳並木や桜並木が続き、その両側には木造2、3階建の旅館や店舗が建並び、周囲を緑豊かな山々が取囲む自然景観の中を、浴衣に駒下駄を履いて外湯めぐりを楽しむ入浴客の姿が、わが国の伝統的な温泉情緒を醸し出しています
 現在の城崎温泉の町並は、大正14年に勃発した北但大震災の復興の中で、全国からの支援と協力をいただきながら町民が一丸となって形成してきたもので、町民がそれぞれの所有地を供出して道路を拡幅し、大谿川を浚渫するとともに川幅を拡げて出水時の浸水に備え、通りの要所に「まちの防火壁」として耐火造の建物を配して類焼を防ぐなど、災害に強い工夫をしています。


温泉地の再生のあり方

 城崎温泉の泉質は、ナトリウム・カルシウム‐塩化物・高温泉で、神経痛・筋肉痛・うちみ・慢性消化器病・疲労回復に効能があるとされています。古代から温泉の効能は広く知られていたようですが、科学的に温泉療法が研究されたのは江戸時代に入ってからのことです。江戸中期の名医、香川修徳がその著書「薬選」の中で「但州城崎が海内第一泉」と絶賛して以来、城崎温泉の名前は全国に流布され、日露戦争の傷病兵の療養地として指定されるなど、山陰本線の鉄道開通と相まって、明治時代後半から大正時代にかけて日々賑わい繁栄しました。
 現在城崎温泉では、慢性消化器病や慢性の便秘に飲用効果のある適応性に着目し、城崎温泉の玄関口である城崎駅前、温泉街の中心に位置する一の湯前、温泉街の奥にあたる温泉寺薬師堂前の三箇所に湯飲場を、散策の合間に休憩しながら気軽に温泉に親しんでもらおうと、温泉街の各所に足湯を設け、温泉街のどこにいても湯煙を感じられるよう取組んでいるところです。

 城崎温泉を全国区に押上げた大恩人である白樺派の文豪志賀直哉は、大正2年、山手線の電車に跳ねられて大怪我をした後の療養に城崎温泉を訪れ、小動物の死を目のあたりにして「いのち」について自らの体験を基に著した『城の崎にて』は、珠玉の心境小説としてわが国の近代文学に不滅の金字塔を打立てました。直哉はその後十数回城崎を訪ね、晩年東京の自宅を訪ねた城崎温泉観光協会長に「城崎こそ日本の代表的な温泉だ。湯はよく澄み、山や川が美しく、日本海の魚がうまい。町の人の心は温かく、木造建築と調和してうれしかった」と語ったと伝えられています。
 北但大震災からの復興に際し、先人が選択したのは日本の伝統的温泉地としての「和の町並」であり、豊かな自然に抱かれた木の温もり溢れる景観を守り、創り、後世に伝える努力を惜しみなく実践してきましたが、生活環境の変化に伴い大谿(おおたに)川は徐々に汚れ、直哉が小説の舞台とした城崎の面影が徐々に悪化していきました。
 このため、大谿川の環境美化を目的とした「大谿川クリーンスタッフ事業」、再びホタルの住む大谿川とするための「ホタル再生事業」など、小・中学生から地域ボランティアを巻込んだ、川を身近に感じられる事業を通じて「景観を育てる取組み」を展開しています。
 また、観光地城崎は、商工会、観光協会、旅館組合、そして町行政が、それぞれの立場で独自にイベントを展開していたため、開催時期や内容が重複し、運営側も参加者も力が分散するという悪循環を繰返していました。そこで、イベントを企画・運営する20代〜30代の若者が中心となり、商工会青年部、城崎文化フェスタ、旅館組合2世会、城崎温泉湯煙り太鼓の各団体を一本化するため、新しい組織を創設しました。
 K'Sと命名された新しい組織の旗揚は1998年。以来、K'Sはイベントの企画・運営に統一的に携わり、将来の城崎を担う若者の力の結集は、視野の拡大、資質の向上、結束の強化、ひいては城崎の伝統である「共存共栄」の醸成にも波及し、その活動は「ゆかたの似合う城崎温泉」という、今日のまちづくりのコンセプトにもなっています。
 更に、これまで比較的表舞台に出ることの少なかった女性に焦点をあて、「きのさき温泉YOSAKOIまつり」を企画。4回目を迎えた2003年は、参加者も40チーム800人を数え、城崎の初夏を彩る風物詩として定着してきました。

 少子高齢化は非常に大きな課題であり、福祉が充実しているヨーロッパでは、人口の伸びが止り活力も低下していますが、生活の豊かさが感じられます。急速に高齢社会を迎えた日本もヨーロッパ型社会へ移行する過渡期にあり、次の世代へ緩やかにバトンタッチしていくため、スローフード、スローライフな社会の構築が必要と考えられます。
 城崎温泉では、「住みたいまちは訪れたいまち」を合言葉に、今後より魅力ある温泉地に生まれ変らせるため、町内に居住する異業種の面々21人(「きのさき温泉夢会議21」)が集い、『城崎温泉夢プログラム〜温泉王国きのさきの明日を目指す10の提言〜』をまとめました。
 先人から受け継いだいで湯情緒あふれる町並みと共存共栄の精神を念頭に置き、愛すべきまち城崎を「元気な町−城崎」にするため、外湯の魅力アップや個性化と楽しく安全に散策できる城崎温泉の確立を目指し、「温泉街を俯瞰するロープウェイ山頂に露天風呂を設置する」、「外湯めぐりの魅力をアップするため、随所に足湯を設置し、空店舗を観光施設に整備する」、「既存の施設の有効利用による集客力アップと未活用資源の掘り起しによる新しい城崎の顔となる空間を創設する」など10の提言を行いました。
 さらに、日本の原風景とも言える懐かしい温泉情緒を残した「温泉王国・城崎」の再興をはかるべく、7つの外湯を個性的で魅力あるものにリニューアルするとともに、温泉街の随所に足湯や飲泉場を整備するなど、線としての外湯めぐりを面的に充実するべく町の改築にとりかかっています。
 この取組みは、町長に就任して以来のモットーである「明るく元気に前向きに」〜開かれた責任ある町政〜を実践するものに他ならないものです。


■城崎このさき100年計画の策定に着手

 大正14年5月の北但大震災(マグニチュード7.0)によって壊滅的な被害を受けた城崎の復興の陣頭指揮にあたった当時の町長は、早稲田大学に支援を求め見事に現在の町並みを形成しました。
 全国的に市町合併が議論される今、住民が主体性を持って「まちのあり方」を考えなければならない時を迎えています。城崎町では、まちの将来を担う若い世代が再び早稲田大学の協力を受けながら、町の職員と一緒になって、住民を主人公とする城崎のこの先100年の計画づくりに着手しました。
 その第一弾として、平成15年6月、早稲田大学とマサチューセッツ工科大学(MIT)の建築・都市デザインを専攻する大学院生によるデザインワークショップを開催しました。
 デザインワークショップの報告会には町民約100人が集り、自然の景観を活かした設計や住民と観光客の交流を重視したユニークな提案に聴入りました。
 川と橋をテーマにした班は、温泉街の中央を流れる大谿川に親水空間を設け、夜でも川の情景を感じられるように、橋の下から水面を照らすことを提案し、JR城崎駅周辺を調査した班は、駅から山や川など豊かな自然が見えない一方で、看板やポスターが多すぎると指摘しました。
 このほか、温泉街の渋滞を緩和するために、現在整備予定のバイパス道路の終点となる温泉街奥に立体駐車場を設け、ここを車の玄関にすることを提案する班、すでに移転が決定している現役場庁舎跡地を自然が体験できる広場や舞台を設け、回遊性のあるコミュニティーゾーンとすることを提案する班、「どろぼう道」と呼ばれている山沿いの路地を子ども達の学習の場とすることを提案する班などがありました。
 若い研究者の皆さんからの新鮮な提案に、私も含め、聴講したすべての町民は、大変感銘を受けました。
 今後、これらの提案を参考としながら、まちづくり委員会を核として、城崎のこの先100年を見据えた「城崎町中心市街地活性化基本計画」の策定と具体的な実現に向けて検討に入ります。


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